あとがきを読みながら涙させられる作家論本なんて、そうそうあるものじゃない。
アニメーション監督にして国民的人気を誇る宮崎駿監督の作品を、そのキャリア最初期から現在までを余すところなく語った作家論。ちくま新書で2001年に刊行された「宮崎駿の<世界>」に、刊行後に発表された「ハウルの動く城」、ジブリ美術館上映の短編群、「崖の上のポニョ」を加え、大幅な加筆修正の上、宮崎駿論としては他の評論を圧倒するボリュームとなった、今後宮崎駿を語るには避けて通れないであろう、いわばドナルド・リチー「黒沢明の映画」、佐藤忠男「小津安二郎の芸術」に比肩する本となった、「増補決定版 宮崎駿の<世界>」。
と、ここでいつもなら本の内容とかを語るところなんですけど、もうそこは買って読んでくださいってことにして、ともかく、これを読んで思ったことをつらつらと。
わたしは1971年生まれなので、アニメーター宮崎駿をリアルタイムで触れることの出来た世代としては、おそらくギリギリのところにいたと思います。「ハイジ」「母をたずねて三千里」などの世界名作劇場はもちろん、「未来少年コナン」もそうだし、「ルパン」など他の作品群もしょっちゅう再放送されていて観ることが出来ましたから、意識するしないにかかわらず、宮崎駿ともうひとり「機動戦士ガンダム」の富野由悠季はずっと観ていたと思います。(ふたりは1941年生まれの同い年。ちなみに私の父親も同い年)
一方の富野由悠季が「ガンダム」のヒット以降の迷走から、結局「ガンダム」を作る人になってしまったのに対し、宮崎駿という人は一貫して同じ話なんだけど、毎回違うものを作り続けてきた人だったから、「ナウシカ」以降のジブリ作品も毎回楽しみで、やっぱり世界を指し示してくれる人だったなあと思っていたわけです。
ところが、「もののけ姫」以降、新作を観ていても、どこか自分と合わないというか、思うところは色々あるにしても、なんだか身の置き所がない感じがあるんですね。
自分が宮崎駿作品を必要としなくなってきたのか、向こうが「お前さんたちの相手をしてられない」となったのか。
なんというか黒澤明監督が「赤ひげ」以降、カラー化して「どですかでん」とか観た人たちが、感じたに違いない違和感に近いんじゃないかと思うわけです。それでも「影武者」「乱」あたりはまだ世界のクロサワのラインで語れるんだけど、「夢」以降、ごくパーソナルな映画を作る人になってからの黒澤明は、「あのおじいちゃんは昔はもっと凄かったんだよ」とかいいながら「七人の侍」とか「用心棒」を観ちゃうみたいな。
今回の「崖の上のポニョ」を観ながら、たしかにこども向きだとは思うけど、なんだかどうして良いんだか、(わたしに子供はいないけど)子供と一緒に観て「ポニョ」を喜んでいたら、「いや、昔の宮崎駿はもっと凄かったんだよ」といいながら「カリ城」や「コナン」を観せていたかもしれない。
この「宮崎駿の<世界>」のなかでも「もののけ姫」までをまとめた第四章で、感動的に終わるんですよ。けっこうウルウルしながら読んでいて、普通なら宮崎駿総論で、ここまででも充分なんですよ。新書版はこのあと予感的な「千と千尋の神隠し」で終わってますからね。でもここまでって「赤ひげ」までなんですよ。そこで人生終われば綺麗なんだけど、そんなことってないよねと。(そこからすると小津や溝口って、綺麗にキャリアの頂点で人生終わった人なんですよ)
で、「千と千尋の神隠し」はまだしも、「ハウルの動く城」にいたっては始まりも来なきゃ終わりも来ない作品になるでしょ。あれが不思議だったんだけど、なるほど、人生ってそんなに綺麗に終わらないでしょ、終わると思ったらまだまだ続くでしょ、と教えてくれたような気分です。
そして「崖の上のポニョ」も、結局人生がはじまるところを示して終わるですよ。それは子供向けだからこれからあなたの人生は始まるよ、というわけで。
この本、評論として考えたら結構なボリュームで作品のストーリー紹介がされていて、「コナン」なんて、全話をほぼ紹介ですよ。普通に考えると、巻末のフィルモグラフィでストーリーが書いてあればいいのに、作者である切通さんはそれを中心に持ってきた。しかも膨大な宮崎駿監督やスタッフのインタビュー資料をぼんぼん積み重ねて、ご本人の弁を借りれば「作品を体験し直す」という行為そのものになっていきます。
だから頭から「コナン」や世界名作劇場の項を読んでいると、子供の頃の自分を体験し直しているようなんですね。「ハウル」のソフィーじゃないけれど、だんだん現在に向かって読書中の数時間で歳をとっていく感じ。
実は冒頭に書いた、あとがきで涙させられたのは、「耳をすませば」のくだりで、たしかに先日テレビでやっているのを観ていたら、前よりちょっと感じ方が変わっていたんですよ。結構面白いじゃんというか、もっと主人公達を応援したくなったというかね。だから「耳をすませば」を主人公の同世代で観た人たちが「大事な作品」を感じていたのはもっと直感的で素直な受け取り方だったんだなって。
結局、まっすぐな表現こそ、最後まで残るんじゃないかと思うし、実は誰もわかっているのにそれを貫けないからこそ、貫徹させてきた宮崎駿という人の偉大さがあるんだろうなあ。
だからこそこの本は、愚直なまでに作品を観て資料をまとめ、ストーリーを語り直すことで丸ごと「宮崎駿の<世界>」を見つめているのです。まさしくタイトルに偽りなし。
実は、ちょっと前に宮崎吾朗監督の「ゲド戦記」が何だったのか、ヒントが見えてきた気がして、今なら公開時よりいい「ゲド戦記」論が書けるなあなんて思ったんですけど、これで確信しました。
はじまれないしはじまっていないまま大人になってしまった息子の世代である我々を、宮崎吾朗監督は正直に吐露していたんじゃないかと思うのです。あまりに正直すぎるとは思うけどさ。
ともかく、いいもの読ませていただきました。
これから宮崎駿作品に触れる人はもちろん、すれっからしの宮崎ファンとかもこれを読むと、余計なものが洗い流される気がしますよ。
読むべし!
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