書籍・雑誌

2009.11.15

久保ミツロウ「モテキ」は面白いぞ!

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今回は漫画の紹介。
友人のお薦めで読んでみた久保ミツロウの漫画「モテキ」

主人公は、30歳を目前にした派遣社員の藤本幸世くん。いままで全然モテなかったのに、突然女友達からのお誘いがバンバンくるようになった。これがひょっとして噂の「モテ期」というやつかっ! と思うのだが、なかなかこれがそうも行かず、ヘタレを繰り返すというお話。

女性キャラクターが、男性目線のありがちな乙女キャラとか、おばさんキャラじゃなくて、生身の肉体を感じるんですよ。ちゃんと20代の女性の心理とセックスを持っているところが斬新だなと。よくこの心理のさじ加減が描けるなと。
と思ったら、作者の久保ミツロウって女性なのね。なるほど。

主人公の前に現れる4人の女性。
会社の元同僚の土井亜紀、趣味の合う年下の中柴いつか、OLの小宮山夏樹、田舎の同級生林田尚子。それぞれの独白がまた面白いんですよ。女の本音がガンガン来るし。恋愛ゲームじゃこういう台詞は出てこないでしょう。(恋愛ゲームって一度もやったことがないけど)
どれか選べっていわれたら……元ヤンキーの林田尚子かな、いまの気分だと。
いろいろ経験してきて、主人公の恋愛相手というより指南役になっているあたり、ああ、いるわなーと思いますよ。

男性キャラも面白くて、見た目は主人公に似てるけど、中身はエロオヤジな墨田とか。うわ、こういう人いるよ! と思うもの。はっきり言ってセクハラ発言連発なんだけど、女性から見たら惹かれちゃうオッサンって、いるんだよねえ。

で、肝心要の主人公藤本くんは、女性からのアプローチにひたすら妄想と逡巡で、結局同じところをぐるぐる回っているのですが、これが笑いを誘いつつも、なんかとても他人事とは思えない。(笑)
いやー、男なら誰でも、程度の大小はあれ、心に藤本くんがいるに違いないですよ。

コミック2巻まで出ていますが、先が楽しみ。
読むべし!

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2009.10.01

瀬名秀明「大空の夢と大地の旅 ぼくは空の小説家」

作家・瀬名秀明氏の取材旅行エッセイ集。雑誌連載をされていたルパンパスティーシュ小説「大空のドロテ」のために、飛行機の免許を取ることにした作者の奮闘を縦軸に、小説のための取材を横軸に、世界各地をまわる旅を記録した本。「大空の夢と大地の旅 ぼくは空の小説家」


小説の取材のためだったのに、ほどなくして飛行機の免許を取ること自体に夢中になる作者。いくら小説のためとはいえ、普通そこまではしないんじゃないのかと思うけれど、ここで妥協しては、緻密な取材で「パラサイト・イヴ」「BRAIN VALLEY」を書いた瀬名秀明の名がすたる。実技練習のために、アメリカに渡り、飛行機学校で合宿生活をする作者。思うように操縦できない緊張感と、飛行機から眺める風景に感動する高揚感。なんだか自分も一緒になって操縦桿を握っている気分になってくる。サン=テグジュペリの描いた世界を体感する、作者の楽しさが伝わってくるのだ。

その他、発表されなかった錬金術を題材にした小説、インフルエンザパニック小説(←もったいない! いまやれば売れるのに)のための取材。
100年にわたる恋愛小説「エブリブレス」のために宮古島へ取材。
イワン・フレミングが日本で活躍する新聞連載小説「ダイヤモンド・シーカーズ」のため、フレミングが来日した旅行先を追い、別府へ旅立つ。
しかしこれだけ取材しつつ、実際に書籍となったのは「エブリブレス」一冊とは、コストパフォーマンスが悪すぎる気もするけれど、自分の納得のいく小説を書くために、妥協は許さないのだろう。となると、早く「大空のドロテ」の発刊が待ち遠しい。


ともあれ、読んでいて、非常に楽しい一冊。
新作小説を待ちつつ、空と地上の旅をしばしお楽しみあれ。

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2009.07.22

西川美和「きのうの神さま」

最新作「ディア・ドクター」が公開中の西川美和監督は、小説も手がけているが、前作「ゆれる」は映画のノベライズだった。しかしこの最新小説は、「ディア・ドクター」の単なるノベライズとはひと味違う連作短編集となった「きのうの神さま」


「ディア・ドクター」制作のために、僻地医療の取材をおこなった著者が、映画には盛り込めなかった部分を含め、全5編の短編小説としてまとめたもの。

現実の中で暮らしている人々が、現状に満足していないが、さりとて抜け出すことも出来ず、もがきながら、日々を耐えている。その生きている様子が、息づかいが聞こえてくるように、汗の匂いが感じるように描かれる。
それはあるバスの運転手であったり、死を直前に迎えた漁村の老人であり、婚期をむなしくすぎつつ老婆を世話し続ける孫娘であったり。
外部の人間がその境遇を聞けば、「だったらやめちゃえば」と言うかもしれない。でも抜け出すことは出来ない。なぜならそれがその人の人生だから。出来ることは、その思いを誰かに訴えることぐらいなのだ。
誰もが生きている上で感じているだろう人生の重さを、全5編にまとめた手腕に敬服する。

ある山村からバスに乗って街の塾に通う少女の物語「1983年のほたる」。
島の医師の代理としてやってきた男の見た島の現実「ありの行列」。
優秀な小児外科医を、妻として支えてきた女性の物語「ノミの愛情」。
医師の父とその父を慕う兄を見続けてきた弟の独白「ディア・ドクター」。
僻地医療の役目を終えて帰る医師の物語「満月の代弁者」。

しかもこの5編の小説は、すべて映画の登場人物とリンクしており、映画を観ると、ふと漏らす登場人物の独白であったり、行動の意味がわかるようになっている。映画とこの小説があわさることで、もうひとつの大きな輪が浮かび上がるのだ。

この小説は、先日の第141回直木賞候補となったが、結果、北村薫「鷲と雪」が受賞した。6度目の候補にして受賞という北村薫の状況からすれば、致し方ないところもあるが、この「きのうの神さま」は、決して劣るものではないと思う。むしろ同時受賞のほうが面白かったかも。
ともかく、読んで損はありません。読むべし。


しかしなんですね、天が二物も三物も与える人がいるものですねえ。

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2009.07.11

村上春樹「1Q84」

(がんばってネタバレなしで書いてみます。とはいえ、そもそもすべての情報なしの段階で発売された小説なので、感想を書いた時点で、ネタバレになると思いますが、そこのところはご了承ください)


というわけで、読み終わりました。村上春樹「1Q84」BOOK1,2。
ここ最近の作品からすれば「海辺のカフカ」よりも楽しめました。いや、「ダンス・ダンス・ダンス」以降で一番面白かったかも。個人的には「ねじまき鳥クロニクル」もまあそこはそれ、と思っていたので。

「1Q84」を読んでいるのと同時に、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の、「破」を劇場で2回観たり、テレビで「序」を観たりDVDで観返したりしているうちに、いろいろ重なってしまうんですよね。だからか、このBOOK1,2、やっぱり「序」と「破」に思えますね。
BOOK1が<4月-6月>、BOOK2が<7月-9月>だから、普通に考えれば、BOOK3<10月-12月>、BOOK4<1月-3月>があると考えるべきでしょう。

もうひとつの現実、もうひとつの物語。背後に見え隠れする巨大な力、重要なアイテムとして月が……とかね。重要なヒロインふかえりの台詞がどうしても林原めぐみの声になって聞こえてしまう!
BOOK2の終わりでも、結構な盛り上がりで終わるとはいえますね。主人公が最後の最後に決意するところなんか、まさしく「破」とも言えるけど。

青豆と天吾ふたりの主人公の交互に展開していくそれぞれの物語が「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のリメイクとも言えるし、「アンダーグラウンド」などのノンフィクションも含めつつ、これまでの集大成ともいえた「ねじまき鳥クロニクル」を超える物語になっていくような気がします。(あくまで続きが書かれればという意味ですが)

数々の初期作品ではあっちの世界に行って帰ってこなかったヒロインが、今作では主人公のひとりとなって意志を持って戦い、自分の意志で帰ってくる物語になっていくのではないか。とすると、やはり絶望の物語から希望の物語に語り直そうとする「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」みたいじゃありませんか。


とはいえ、この物語が100万部を超えて、誰もが面白がっているのかと思うと、とても不思議ですよね。どう考えても一般化しそうにない物語だもの。
カルト的な人気を誇って10万部となかならわかりますよ。(たしか「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」はそれぐらいだったはず)
でも、これを100万人が読んでいるのかと思うと、それはそれでとても面白いと思うし、これがはじめてのハルキ作品だとしたら、是非最初の作品から順番に読んでいってもらいたいところです。


え、読むべし、をつけるのかって?
っていうか、ともかく読まなきゃあかんでしょ!

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2009.05.17

佐藤和歌子「角川春樹句会手帖」

とある方からのオススメ本だったので、読んでみたらこれは面白かった!
扶桑社の文芸誌「en-taxi」に連載された句会記録をまとめた「角川春樹句会手帖」


ある日突然、「句会をやるから俳句を二十句作って持ってこい」といわれたらどうしますか?
しかもその句会の評者はかの角川春樹。かつて角川書店社長として、出版の傍ら、「犬神家の一族」に始まる角川映画を作り上げた、あの角川春樹ですよ。
知らないひとは知らないが、角川春樹は俳人として「信長の首」「花咲爺」などの句集を出しているので、そんな人物が待ちかまえているところに、「素人なので俳句は出来ませんでした」と逃げることは許されない。

かくて哀れなる新人俳人たちは、必死の思いで慣れぬ手付きで俳句を捻って、おずおずと差し出すのである。
福田和也、寸(←福田氏の弟子)、佐藤和歌子、石丸元章、北方謙三、中畑貴志、澤口知之、斉藤斎藤、田中悠貴、茂木健一郎、斎藤環、藤原敬之、前島篤志、さいとう健、菊池成孔、佐伯一麦、島田雅彦、ねじめ正一、高橋春男。

とまあ、これらそれぞれの分野のトップの面々が、俳句を捻ってくるんですが、それぞれ、やっぱり人を見事に表すんですよ。北方謙三はハードボイルドだし、石丸元章はヤバ目のネタにはしり、島田雅彦はやっぱり色ネタだしね。

わたしは普段、俳句も短歌も詩も、その手のたぐいにはあまりふれないのですが、かつて角川春樹の句集「信長の首」は読んだことがあって、それで俳句の概念をひっくり返されたというか、ビックリしたのを覚えています。
なんていうのかな、真剣がずらりと並んでいるような感じというのかな、下手に触れると手が切れそうな感じがしたのを覚えています。

 向日葵や信長の首斬り落とす

これは角川春樹の代表句ですけどね、なんかねえ壮烈ですよねえ。

話を戻すと、今回の句会では、飲み食いしながら(この句会では必ず何か食事しながら行われる)素人俳句が角川春樹の手にかかって直されると、あら不思議。見事な俳句になっていくのです。
例えていうと、麻雀で、おもしろみのない手牌なのに、角川春樹が「ちょっとかしてみ」と一回自摸(ツモ)っただけで、見事な手牌に早変わり、ということになるのです。
時々やりすぎて、角川春樹の句になってしまうところはご愛敬ですが。

俳句の入門本とか、そういうものではないけれど、ワークショップの記録として読むと、はるかに面白く、臨場感があって、句会の末席にいるようなワクワク感が味わえるんですね。
それに合間に出てくる食事が旨そうなんです。何故だろうと思ったら、この作者(というか句会の記録者)である佐藤和歌子さんって、焼き肉屋の食べ歩きエッセイ「悶々ホルモン」の作者なんですね。なるほど食事の席の臨場感が見事なわけです。

ちなみに、今回登場した俳句のなかで、読んで一番面白かったのは、歌人である斉藤斎藤さんのやつですね。

 角川文庫生乾きでもにおわない

 費用対効果 ヤクルト対巨人

 震度3いつでも抱ける肉ひとつ

 おれがよく言っておくから日本の夏

なんだか面白い。
これが北方謙三だと、当たり前すぎる。

 音なしのシェイカーを振りし修羅がいる

 俺が立ち舞う枯葉さえ波にけり

ね、やっぱり北方ハードボイルドでしょ。
どうせなら「ソープ行け吠えるおやじの枯木道」とかでどうだ。(笑)

あと斎藤環の句はオタク的には可笑しかった。

 大宇宙昭和のおたく「そら」とルビ

 しばらくは父も子もなしゲド戦記

はははっはははあはっはは。

というわけで、読み終わると、ちょっと自分も俳句をやってみようかしらんという気になってきますので、だまされたと思って一度読んでみてはいかがでしょうか。


あ、決まり文句を忘れてた。せっかくだから一句詠んでみます。


 読むべしといわずば喰われし海鼠の日

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2009.04.08

買うべし!「映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと」

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フィルムアート社さん、ありがとう!

ついに、ついに、ついに出た!
少なくとも、わたしが知る限りもっとも実践的でわかりやすい映画シナリオ執筆のための教科書、Syd Fieldの「Screenplay - The Foundations of Screenwriting」「The Screenwriter's Workbook」のうち、「Screenplay」が、『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと シド・フィールドの脚本術』(訳:安藤紘平加藤正人 小林美也子 山本俊亮)と題して出ました!


実践執筆編の「The Screenwriter's Workbook」は1991年に別冊宝島の一冊として「シナリオ入門」として出ましたが、これは伝説の書として、いまだヤフオクなどでは高値で取引されています。前にも何かの折りに書きましたが、作家の乙一さんはこれを座右の書としてあげていました。

映画というのはだいたい2時間の中に物語があるわけで、それをシド・フィールドが過去の映画の分析や、様々な物語論をまとめ、三幕の構成と物語の転換点となるポイントなど、非常に効率よく分析されていて、凡百の映画シナリオ教則本で「○○すべし」みたいな経験論的な説教本とは意味が違う!
それも、実際の映画のシーンを参考にしているので、とてもわかりやすいのです。
キャラクターはどうやって作るのかとか、アイデアをふくらますにはとか、事件の起こし方とか、ともかく読んで損はありません。

前述の「シナリオ入門」はもちろんもっていて、折りに触れて読み返していましたが、それでも飽きたらず、原書を買って、つたない英語力で読んでました。(というと英語出来るんだーとか思われるかもしれませんが、ぜーんぜん出来ません。気合いです)
でも、これでもう大丈夫。いま、日本語で読める喜びをかみしめてますよ。
しかも訳出されたのは2005年に出た最新改訂版をもとにしているので、参考にしている映画も「市民ケーン」など名作中の名作から、「シービスケット」「ロード・オブ・ザ・リング」など最近の映画になっていてこれだけでも映画好きなら読んでて楽しいです。

映画のシナリオを書く書かないにかかわらず、映画好きなら必読、小説を書こうという人も是非、特にエンタメ系なら読んで損なし。ストーリーテリングの参考書として、本当にすばらしく明快で、分析力のつく本ですよ。
定価2500円+税は、決して高くありません。ほら、そこのあなた、シナリオや小説を書いて賞金もらって儲けようってんでしょ。だったらこれぐらいの投資しなきゃ。

これが売れて、姉妹編である実践編「The Screenwriter's Workbook」も再訳されてあわせて出てくれればうれしいなあ。


買うべし! 読むべし!

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2009.03.04

湊かなえ「少女」と映画「アンブレイカブル」

デビュー作「告白」がベストセラー驀進中の湊かなえの第二作長編。期待をこめて読まれた方もいらっしゃるかもしれません。
「人の死ぬ瞬間が見たい」と考えた少女二人の夏の物語「少女」
「告白」の悪意のこもった解決ドミノ倒し的などんでん返しに比べると、「少女」のどんでん返しはわかりにくいだろうなと思うのです。

「少女」の構成は由紀と敦子、二人の女子高生のそれぞれの一人称が交互にくることで、表か裏か、裏か表かと考えさせつつ、実は……というサプライズが来るようになっているわけですが、このサプライズが、ギリギリでストーリーのライン上から外れているので、サプライズになっていなくて、人によっては何のことか意味がわからないで読み終えて、「『告白』に比べるとつまらない」と感想を持たれると思うのではないかな。

「告白」の、どんでんが返りつつ最後にピースが埋まる快感と、「少女」の、どんでんが返ると思っていたら期待するところと違う部分がひっくり返って、意味がわからないという、この差、この違いって、非常にデジャヴを感じるのです。
それが、M・ナイト・シャマランの「シックス・センス」とその次に撮られた「アンブレイカブル」に似ているような気がしてならないのです。


「シックス・センス」は、かなりの人がすでに知っているように、一発どんでん返しに、シナリオ・演出・演技・撮影すべてが向かった傑作だったわけですが、あの快感をもう一度、という期待がかかった「アンブレイカブル」は、どんでん返しの意味がずれている上に、そもそもどんでん返しの意味が伝わらずに終わった感のある作品なのです。


「アンブレイカブル」は、「シックス・センス」と同じくブルース・ウィリスが主演の、スーパーヒーロー映画です。
「アンブレイカブル=Unbreakable」壊れないという意味ですが、何が? というと主役のブルース・ウィリスが、ということです。要するに不死身のスーパーヒーローだってことが、この映画のタイトルの意味を表しているわけですが、映画全体は「ブルース・ウィリスは本当に不死身のスーパーヒーローなのか?」ということをサスペンスタッチで追いかけます。
で、それが証明された後、最後の最後、まったく違うサプライズがやってきて、この映画が本当に意図した物語の意味がわかる、というのが、シャマラン監督が狙ったところなのです。

でも、そのサプライズが、見終わった後、観客に伝わっていません。サプライズが機能していないのは、「シックス・センス」のときと違って、物語全体が、ストーリーラインに乗った上でのどんでん返しになっていないので、「え、そこ?」としか言いようのない、唐突かつ強引なオチなんです。

「シックス・センス」が物語のためのどんでん返しなのに対し、「アンブレイカブル」は、どんでん返しのためのどんでん返しになっているのです。
これは近いようで、決定的にずれています。

M・ナイト・シャマランは、その後、どんでん返しにこだわっていくが、独りよがりで、つまらない映画ばかりを撮るようになってしまい、こうなると「シックス・センス」のすばらしさは、まぐれ当たりだったのかと残念のような気がします。
もちろん、凡作とはいえ「サイン」のアホさ加減とか、嫌いじゃないので、ついつい期待して観てしまうのですが……。


湊かなえの「告白」は面白かったけれど、「少女」は「どんでん返しのためのどんでん返し」を狙いすぎて外した感じからすると、次回第三作に期待しつつ、正念場のような気がします。

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2008.11.05

切通理作「増補決定版 宮崎駿の<世界>」

あとがきを読みながら涙させられる作家論本なんて、そうそうあるものじゃない。


アニメーション監督にして国民的人気を誇る宮崎駿監督の作品を、そのキャリア最初期から現在までを余すところなく語った作家論。ちくま新書で2001年に刊行された「宮崎駿の<世界>」に、刊行後に発表された「ハウルの動く城」、ジブリ美術館上映の短編群、「崖の上のポニョ」を加え、大幅な加筆修正の上、宮崎駿論としては他の評論を圧倒するボリュームとなった、今後宮崎駿を語るには避けて通れないであろう、いわばドナルド・リチー「黒沢明の映画」、佐藤忠男「小津安二郎の芸術」に比肩する本となった、「増補決定版 宮崎駿の<世界>」


と、ここでいつもなら本の内容とかを語るところなんですけど、もうそこは買って読んでくださいってことにして、ともかく、これを読んで思ったことをつらつらと。

わたしは1971年生まれなので、アニメーター宮崎駿をリアルタイムで触れることの出来た世代としては、おそらくギリギリのところにいたと思います。「ハイジ」「母をたずねて三千里」などの世界名作劇場はもちろん、「未来少年コナン」もそうだし、「ルパン」など他の作品群もしょっちゅう再放送されていて観ることが出来ましたから、意識するしないにかかわらず、宮崎駿ともうひとり「機動戦士ガンダム」の富野由悠季はずっと観ていたと思います。(ふたりは1941年生まれの同い年。ちなみに私の父親も同い年)
一方の富野由悠季が「ガンダム」のヒット以降の迷走から、結局「ガンダム」を作る人になってしまったのに対し、宮崎駿という人は一貫して同じ話なんだけど、毎回違うものを作り続けてきた人だったから、「ナウシカ」以降のジブリ作品も毎回楽しみで、やっぱり世界を指し示してくれる人だったなあと思っていたわけです。

ところが、「もののけ姫」以降、新作を観ていても、どこか自分と合わないというか、思うところは色々あるにしても、なんだか身の置き所がない感じがあるんですね。
自分が宮崎駿作品を必要としなくなってきたのか、向こうが「お前さんたちの相手をしてられない」となったのか。
なんというか黒澤明監督が「赤ひげ」以降、カラー化して「どですかでん」とか観た人たちが、感じたに違いない違和感に近いんじゃないかと思うわけです。それでも「影武者」「乱」あたりはまだ世界のクロサワのラインで語れるんだけど、「夢」以降、ごくパーソナルな映画を作る人になってからの黒澤明は、「あのおじいちゃんは昔はもっと凄かったんだよ」とかいいながら「七人の侍」とか「用心棒」を観ちゃうみたいな。
今回の「崖の上のポニョ」を観ながら、たしかにこども向きだとは思うけど、なんだかどうして良いんだか、(わたしに子供はいないけど)子供と一緒に観て「ポニョ」を喜んでいたら、「いや、昔の宮崎駿はもっと凄かったんだよ」といいながら「カリ城」や「コナン」を観せていたかもしれない。

この「宮崎駿の<世界>」のなかでも「もののけ姫」までをまとめた第四章で、感動的に終わるんですよ。けっこうウルウルしながら読んでいて、普通なら宮崎駿総論で、ここまででも充分なんですよ。新書版はこのあと予感的な「千と千尋の神隠し」で終わってますからね。でもここまでって「赤ひげ」までなんですよ。そこで人生終われば綺麗なんだけど、そんなことってないよねと。(そこからすると小津や溝口って、綺麗にキャリアの頂点で人生終わった人なんですよ)

で、「千と千尋の神隠し」はまだしも、「ハウルの動く城」にいたっては始まりも来なきゃ終わりも来ない作品になるでしょ。あれが不思議だったんだけど、なるほど、人生ってそんなに綺麗に終わらないでしょ、終わると思ったらまだまだ続くでしょ、と教えてくれたような気分です。
そして「崖の上のポニョ」も、結局人生がはじまるところを示して終わるですよ。それは子供向けだからこれからあなたの人生は始まるよ、というわけで。

この本、評論として考えたら結構なボリュームで作品のストーリー紹介がされていて、「コナン」なんて、全話をほぼ紹介ですよ。普通に考えると、巻末のフィルモグラフィでストーリーが書いてあればいいのに、作者である切通さんはそれを中心に持ってきた。しかも膨大な宮崎駿監督やスタッフのインタビュー資料をぼんぼん積み重ねて、ご本人の弁を借りれば「作品を体験し直す」という行為そのものになっていきます。
だから頭から「コナン」や世界名作劇場の項を読んでいると、子供の頃の自分を体験し直しているようなんですね。「ハウル」のソフィーじゃないけれど、だんだん現在に向かって読書中の数時間で歳をとっていく感じ。

実は冒頭に書いた、あとがきで涙させられたのは、「耳をすませば」のくだりで、たしかに先日テレビでやっているのを観ていたら、前よりちょっと感じ方が変わっていたんですよ。結構面白いじゃんというか、もっと主人公達を応援したくなったというかね。だから「耳をすませば」を主人公の同世代で観た人たちが「大事な作品」を感じていたのはもっと直感的で素直な受け取り方だったんだなって。

結局、まっすぐな表現こそ、最後まで残るんじゃないかと思うし、実は誰もわかっているのにそれを貫けないからこそ、貫徹させてきた宮崎駿という人の偉大さがあるんだろうなあ。
だからこそこの本は、愚直なまでに作品を観て資料をまとめ、ストーリーを語り直すことで丸ごと「宮崎駿の<世界>」を見つめているのです。まさしくタイトルに偽りなし。


実は、ちょっと前に宮崎吾朗監督の「ゲド戦記」が何だったのか、ヒントが見えてきた気がして、今なら公開時よりいい「ゲド戦記」論が書けるなあなんて思ったんですけど、これで確信しました。
はじまれないしはじまっていないまま大人になってしまった息子の世代である我々を、宮崎吾朗監督は正直に吐露していたんじゃないかと思うのです。あまりに正直すぎるとは思うけどさ。


ともかく、いいもの読ませていただきました。
これから宮崎駿作品に触れる人はもちろん、すれっからしの宮崎ファンとかもこれを読むと、余計なものが洗い流される気がしますよ。

読むべし!

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2008.05.07

岡田斗司夫「オタクはすでに死んでいる」

作家・井上ひさしは、右翼から抗議が来たとき、ひるまず「あなた、歴代の天皇の名前(追号のこと)、全部言えますか?」といって、歴代天皇の名前を神武から全部言ったそうな。それで相手はひるんで帰っていったとか。
井上ひさしの博覧強記ぶりと見事な切り返しとして知られる有名なエピソードだが、この話にはひとつの了解事項がある。
「右翼たるもの歴代天皇の名前ぐらい知っているものだ」ということだ。

さて、本題。
オタキング岡田斗司夫の「いつまでもデブと思うなよ」に続いて、新潮新書から出たのは、2006年5月24日に新宿ロフトプラスワンで行われたイベント「オタク・イズ・デッド」の内容をもとに、大幅に加筆修正した「オタクはすでに死んでいる」

岡田氏自身が最近触れた今のオタク青年のふるまいが、かつて自分たちの共通理解としていたオタクとは違っていた。そこから現代の「オタク」の変質し、オタクというものは死んでしまった、という内容。
便宜上(かなりエクスキューズを入れているが)オタクを世代に分けて、岡田氏自身の40代半ばの世代をオタク第一世代。80年代後半から90年代にかけて青春の20代終わりから30代半ばの第二世代。そして現在の20代前半を第三世代としている。そしてもっとも第一第二世代と、第三世代との間に溝が出来ていること。

だいたいオタクって「自分の好きなものをとことん追求せずにはいられない人」ぐらいの定義だったんですね。だから人によってはそれがアニメかもしれないし、鉄道かもしれない、映画かもしれない、ミリタリーかもしれない。もちろんジャンルの横断はあります。ミリタリー好きで戦争映画ばっかり観ているオタク、なんてのは当然います。
もうひとつのお約束として、とりあえず他ジャンルのことに無茶に侵犯しないということがあります。鉄の人が知らない人に埼京線の絶景撮影ポイントを説明してくれる(この場合撮り鉄だっけ)ということはありますが、だからといってその人がアニメオタクを攻撃はしません。ただし、同じ撮り鉄だったら、同好の士しての了解事項と目に見えない鉄の掟が存在します。
SFオタク同士なら「サンリオSF文庫は基礎教養として全部読んでて当たり前」みたいな。ああ、なんか懐かしい会話ですねえ。

ところがいつの間にやら、オタクというのは美少女ものが大好きでメイド喫茶で「萌え~」というような、テレビで出てくるようなステレオタイプなものになって、しかもそれをなぞるような若者がメインになってしまった。
(私なんかは美少女アニメとか欠片も興味がないのですが)まあそれはそれでいいんですが、問題はそれが全てで、他者に対して排他的な態度になっていくのですね。

美少女アニメが好きならそれで良いと思うんですけど、一応それ以外にも「自分の好きなもの以外のオタク世界があること」ぐらいは了解しておいていいんじゃないでしょうか。それでだいたいのトラブルは解決しますよ。

思うのは、第三世代は異様に歴史の認識が浅い。というか歴史がなくて「今」しかない。
美少女アニメだと、それこそ「リボンの騎士」から始まって、魔法少女もの「魔法使いサリーちゃん」とか「魔女ッ子メグちゃん」とかから「魔法のプリンセスミンキーモモ」「魔法の天使クリィミーマミ」みたいなところがあって、「美少女戦士セーラームーン」から現在の隆盛があるはずなんですが、もう通じないですね。 (ここまで、素でタイトル書けちゃったよ)
とにかく今、自分の好きなもので完結している感じ。
漫画が大好きという若者に「ドラゴンボール好き?」と訊いたら「何ですかそれ」と言われちゃったことは自分の世代だと最近よくあるわけですよ。
格好いいイケメンアニメが好きだというから「サムライトルーパー」「幽遊白書」を持ち出しても「なにそれ? しらなーい」みたいな。
知らなきゃ知らないでいいんだけど、「じゃあ読んでみようかな」みたいなものがなくって「私は私の好きな○○がいいんです! 放っておいてください」というようなATフィールド張りまくって全拒絶かい、っていうような態度をね。
これを「自分の気持ち至上主義」と本書中で書かれています。


で、ここで話は冒頭の井上ひさしに戻ります。
最初の「歴代の天皇の名前を言えますか?」というネタの根底には、「右翼を名乗るなら歴代天皇の名前を全部言うことぐらい出来るはずだ」という暗黙の了解と、「それを敵だと思っていた井上ひさしに軽々と言われちゃって恥ずかしい」ということが前提なわけです。だから抗議に来た右翼もすごすごと帰っていったわけです。
ところが、これがオタクのみならず第三世代になるとどうか。おそらく歴代天皇の名前なんて知らないし、それ以前にそれが意味することも理解できないと思います。「天皇の名前が言えないからそれがなんだ。そんなことよりとにかくお前が気に入らない」といって刺しちゃうかもしれない。いやー可能性ありそうだなあ。

今の日本は、排他的で自分のその時の気持ちだけが肥大化した社会ではないでしょうか。
ともかく、今の日本を覆っているイントレランス(不寛容)なありよう。
凶悪事件をことさらに煽り、極刑を望む報道。でも裁判員制度の開始に伴って「でもそんな面倒くさいことやりたくない」という感じ。
やれ「反日だ」「ブサヨ死ね」とネットで書き込むものの、真っ当に日本の歴史もよく知らない、それを指摘されると逆ギレする人たち。

まあ、自分の世界だけじゃなく、他者の世界もあるって認識すること。
自分の好きなものがあるなら、もうちょっと(自分が好きなものなんだから)歴史を学びましょうということです。
そのふたつがあれば、もうちょっと世間は良くなると思います。


と、この本を読んで、そんなことをつらつらと考えてみたのでした。

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2008.04.28

北方謙三「水滸伝」全19巻を読むべし!

2008年4月に、集英社文庫で毎月刊行されていた北方謙三「水滸伝」の最終19巻が出た。
昨年秋から読み続けていたのだけれど、これで読み終えたので、まとめて感想を。

「水滸伝」と言えば、北宋末期を舞台にした、梁山泊に集いし百八人の豪傑たちの物語。とはいえ、真っ当に読んだことはこれまでなく、横山光輝の漫画版ぐらい。
とはいえ、「三国志」は吉川英治も横山光輝の漫画版も面白かったけど、「水滸伝」はそんなに面白くなかったような。
それもそのはず、元々の話自体、リーダーの宋江そのものがあんまりリーダらしくない上に、反乱を始めたのに、帝から認められるといそいそと地方征伐に乗り出して最後は死んでいくという、なんだかなな終わり方。

が、この北方謙三版「水滸伝」は違う!
原作にあった伝奇要素は影を潜め(というか道術とか超能力みたいなのは北方水滸伝の登場人物は使わない)、豪傑たちを一人一人リアルな設定に肉付けしてある。宋江は結構な女好きのリーダー。林冲は凄腕だけど、妻への愛をひた隠しにしていたものの、奸計にはまって妻を殺された悲しみを背負って生きる。呉用は頭は切れるが、それ故に他の軍人たちから疎まれる。
魯智深はなんと、諸国を回って、見込んだ漢を梁山泊へスカウトしてまわるのだ。
と言った具合で、宋と闘う梁山泊の豪傑たちという大枠と、各キャラクターの名前を借りて、再構築されているのだ。
そこで、百八人の豪傑たちは登場しては片っ端から死んでいく。
実は、名うての書評家たちの絶賛の声を聞いて、それなら読んでみようかと思って昨年秋あたりから手をつけ始めたものの、最初の数巻は設定の変更とか「へえ、なるほど」と思った程度で、のめり込むほどではなかったのだ。
それが5巻で物語が急展開するあたりから、TOPギアに入って、あとは怒濤の読書三昧。そこでなんか懐かしいなあという気がしたのだ。
そう、これは「銀河英雄伝説」だよ!

いや、話は逆で、「銀英伝」が「三国志」「水滸伝」といった中国大河小説をもとに、田中芳樹がスペオペにしたのであって、それを(多分北方謙三は意識せずに)隔世遺伝的にオリジナルの「水滸伝」にしたのだ。
だから、前半のクライマックスである二竜山の攻防戦は、完全にイゼルローン攻略戦に思えてくるし、つまり5巻の展開は、「銀英伝」における2巻のラストなわけですよ。ええっ! そんな! なことになります。

で、「銀英伝」が後半ユリアンの成長物語であったように、北方水滸伝は、青面獣楊志の息子として登場する、オリジナルキャラクター楊令の成長物語となってきます。最後の戦いに間に合わせて、梁山泊に降り立った楊令に、「待ってました!」の声もかけたくなります。

対する敵もさるもの。ここは完全にオリジナルな青連寺という諜報組織が政府を操り、梁山泊軍との死闘を繰り広げます。ここでも、高俅をはじめとするキャラクターがなかなかの憎き悪役ぶりを魅せてくれますが、なんといっても一番は、後半青連寺を率いることになる李富。「銀英伝」におけるオーベルシュタイン。こいつは梁山泊を壊滅させることに全てを捧げますが、そこに至るプロセスがこれまたすごい。つい応援したくなるんですよ。

そして最終3巻は、圧倒的な力で梁山泊を追い詰める童貫との死闘に次ぐ死闘。バタバタと死んでいく漢たち。

怒濤の戦場の中で終わりを迎える物語。しかし、話はここで完全に完結はしない。数々の複線は、楊令を主役にした続編、その名も「楊令伝」に引き継がれていくのです。(全10巻予定。現在第5巻が出たばかり)

先にネタバレから言うと、おそらく、史実の北宋の滅亡までの10年を、この「楊令伝」で描くのでしょう。ということは、北方謙三は革命の実現を描いちゃうってことではないでしょうか。
待ちきれないから、読み始めようかなあ。>楊令伝


ともかく、週1冊ペースで半年近くは楽しめること間違いナシの北方水滸伝。掛け値なしで読むべし!!

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